KANSAI UNIVERSITY

INTERVIEW | 私は、こんな人。 /14

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大学での米朝師匠の落語や
仲間との出逢いが宝。

 大阪天満宮の膝元に建てられた、安藤忠雄氏設計による上方落語協会会館。300年以上の歴史を持つ伝統的な落語のイメージとは異なる、現代的佇まいが印象的だ。その稽古場に現れたのは、桂文枝さん。現在、上方落語協会会長を務め、関西で絶えていた落語の定席を復活させるため「天満天神繁昌亭」設立に尽力するなど、現代の上方落語を牽引している。
 文枝さんは母一人子一人の家庭で育った。幼い頃から独りでラジオを聴いたり絵を描いたり、想像の世界で遊ぶことも多かった。高校時代は演劇と漫才にのめり込む。卒業後1年間の浪人生活を経て、関西大学商学部に入学。そして大学1年目の秋、落語と出逢うこととなる。学内のイベントで桂米朝さんの落語を聞き、大きな衝撃を受けたという。
「独りの噺家が、巧みな話術と身ぶりで沢山の人を惹きつけて沸かせている姿に驚きました。米朝師匠の落語は特に文学的で芸術的だったのです。私がそれまで興味を持っていたすべてのことが落語にはあり、これ以外で自分を活かせるものはないと直感しました」
 その後、学内の有志たちと“関西大学落語大学”を立ち上げ、アマチュア落語家としてラジオ番組にも出演。在学中、桂小文枝さん(後の五代目桂文枝)のもとに弟子入りを決意した。
「関西大学に行ったことで、落語との縁が生まれ、部活動を通じて多くの仲間と出逢えたことが大きな宝です。彼らの存在があったから、落語をずっと続けられたのだと思います。卒業後は校友会などもありますが、吉本興業の会長や社長をはじめ、各界にOBの方が多くいます。そしてバイタリティがあり、親しみやすいところが関大人の魅力ですね」

後進の育成と、
創作落語300作を目指す。

 2012年、上方落語界きっての大名跡、桂文枝の六代目を襲名。桂三枝という名前と別れ、大看板を背負うことには葛藤もあったという。
「桂三枝という名前を全国の皆さまに知っていただいたので、その名が消えるのはもったいないとよく言われました。しかし落語家として、文枝という上方の大きな名前を守るべきだという想いが強く、襲名いたしました」
 桂文枝さんが三枝として全国的に知名度を広げたのは20代の頃。深夜ラジオやテレビ番組でタレントとして爆発的な人気を博した。
「若い頃はたまたまタレントとしてマスコミに取り上げられましたが、落語家の道を全うするという決意がぶれることはありませんでした。ただテレビの仕事が増えるにつれ、しゃべり口調が古典落語に合わなくなってきた。そこで創作落語の世界をひろげていこうと考えたのです」
 そして40代以降、創作落語に次々と取り組み、これまでに約250作品を生み出してきた。文枝さんに、今後の夢についてたずねた。
「“創作落語300作”を目指して、あと50作品の落語を創りたい。そして、いずれ平成の古典と言われるものを遺していきたいですね。また、私自身が色々な方にお世話になったので、今度は次の時代を担う若い落語家たちを後押ししたいです」
 将来を見据えて、新たに若手落語家の活躍の場を構想中だという。
「現代の人の心をつかむ落語家が出てこないと、落語という芸も滅んでしまいます。落語は、長い歴史の中で時代の噺家が時代に合うように作り替えてきた。古いものと新しいものをより合わせ、一本の縄をなうように強い伝統として遺していく。そうして落語を次代へ引き継いでいきたいと思います」

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