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INTERVIEW | 私は、こんな人。 /24

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史上、最も速い球を投げた投手。

 プロ野球史上、最速の球を投げた伝説の投手として今も語り継がれるのが、オリックス・バファローズの前身である阪急ブレーブスの黄金時代を支えた山口高志さんだ。入団後わずか4年で50勝を記録。160キロに迫る豪速球は今もなお、野球ファンの記憶に刻まれている。
 山口さんが本格的に野球を始めたのは小学校4年生の頃。当時から地肩の強さが自慢だった。高校入学後は肋間神経痛を患い、思い通りに力を発揮できなかったが、野球部の高木太三朗監督、担任教師、仲間たちの熱心なサポートもあり怪我を克服。猛練習を重ねて才能が開花、3年生の時にはエースとして春夏連続で甲子園出場を果たした。
「2大会出場して1勝2敗。一度しか勝てなかったのが悔しくて、次のレベルを目指して大学で野球をやりたいと考えました」
 そして、関西大学野球部のOBでもあった高木監督の勧めで関西大学に入学。
「村山実先輩、上田利治先輩の時代から関大野球部は優勝できていなかったので、ぜひとも我々の時代に明治神宮野球場で日本一を奪還したいという想いが強かったです」
 そう語る山口さんは投手として、1972年、第21回全日本大学野球選手権大会と第3回明治神宮野球大会でチームを優勝に導き、関西六大学リーグでは通算最多勝利46勝をマークした。
 大学卒業後はプロ野球の道を選ばず、社会人チームの強豪・松下電器産業株式会社(当時)へ入社。
「僕が子供の頃は家にテレビもなく、プロ野球が今ほど身近ではありませんでした。野球チームを持つ大手企業に入社する選手も多く、僕も松下電器という恵まれた環境でトップレベルの野球をしたかったのです」
 転機が訪れたのは、社会人代表としてキューバへ遠征したときのこと。
「当時、カストロ首相の前でキューバの強い選手を相手に試合をして、凄いレベルの野球があるのだと痛感しました。このまま仕事と野球の両方とも中途半端になるよりプロ野球で勝負をしたいと思い、ドラフト会議で1位指名をいただいた阪急ブレーブスへの入団を決意しました」

野球では、技術だけでなく人格も大切。

 阪急ブレーブスに入団後、ルーキーイヤーの1975年から山口さんの快進撃が始まった。18完投、12勝で新人王を獲得。同年より日本シリーズに進出し、チームの3年連続日本一に貢献。1978年にはリリーフに転向し、最優秀救援投手のタイトルも手にした。
 だが、同年の日本シリーズを目前に、腰の故障という試練に襲われた。
「プロ入りして4年、絶頂の時でした。そのあと4年間は必死で治療とトレーニングを重ねましたが、以前のように球が走らなくなりました。野球人生で初めてぶち当たった大きな壁でした」
 約8年の現役生活に幕を閉じ、引退後はプロ野球のスカウトや投手コーチとして活動。阪神タイガースでは、藤川球児投手や岩田稔投手の活躍の場を広げた。現在、山口さんは関西大学野球部でアドバイザリースタッフを務め、後進の育成に力を注いでいる。
「勝負事ですから、関大野球部にはまた神宮へ行ってほしい。西に関大ありと、その名を轟かせてほしいです。一方で、約160人の部員がいて、ベンチに入れるのは25人だけ。残りの約140人は試合に出たくても出られません。だから僕は、強くすることは監督におまかせして、ベンチに入れない選手にも、有意義で充実した大学4年間だったと思ってもらえるように、少しでも協力をしたいです」
 山口さん自身、これまで野球人生を歩み続けられたのは“人”に恵まれたからだと考えている。大学時代の恩師である故・達摩省一監督が、口癖のように語っていたのは「いい人間になれ」という言葉だった。
「野球をする上で、技術と同じくらい大事なのは人格だと教わりました。投手の日頃の言動をみて、野手たちは、こいつのためなら怪我をしてもいいから飛び込んで補ってやろうと、ここ一番の極限のプレーをするのです。いい指導者や仲間に恵まれたからこそ、目の前の一球を全力で投げられた、そう思っています」

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